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    アジョシ

    2011.09.26 Monday 23:58
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      おじさんと少女という設定が好きである。
      なんだろう。兄でもない、父でもない、恋人でもない、しかし、そのすべてである他者の見つめる先に、未成熟な存在「少女」がいる。その感じが好きなのかもしれない。
      絶対的に守られる。絶対的に愛される。
      それは、少女だけの特権だと思うからかもしれない。

      『関の弥太ッぺ』(1963東映 山下耕作・監督)は、自分の中でベストと呼べるほど、本当に好きな作品である。
      幼い妹と生き別れになった関の弥太郎(中村錦之助)は、川で溺れそうになった娘・お小夜を助ける。それから、10年の月日が流れ、任侠の世界に生きる弥太郎は別人のように荒んだ顔になり、お小夜は、美しい娘に育つ。弥太郎を、ずっと慕い続けるお小夜。
      弥太郎とお小夜は再会するが、名を問われ、「渡り鳥には名前はありやせん」と答える。
      「この娑婆には哀しいこと、つれえことが沢山ある。忘れるこった。忘れて日が暮れりゃ明日になる。ああ明日も天気か。」
      幼い日にも聞いたその言葉に、お小夜は、目の前の刀傷の男が慕い続けたその人だと知るが、二人の間には、美しい花が咲く垣根があり、お小夜が回り込むうちに、弥太郎は果し合い向かい立ち去ってしまうのだ。
      しかし、おじさんと少女という設定だけで言えば、住む世界が違うのだと、女の純粋な恋を拒む、男の色香、その分をわきまえたストイックな姿が良いのであって、少女には感情移入する隙間がない。

      では、少女側が魅力をもったものを考えてみると、

      『白い婚礼』(1988フランス)は、哲学教師とヴァネッサ・パラディ演じる教え子の禁じられた愛とその破滅を描いているが、少女が性的に誘惑体でありすぎるように思う。

      『レオン』(1994アメリカ・フランス合作)は、この組み合わせを聞いて、誰もが一番に思い浮かべるタイトルではないか。
       凄腕の寡黙な殺し屋と12歳の少女の純粋な愛を描いたこの作品は、スタイリッシュな映像と、少女マチルダを演じたナタリー・ポートマンのひたむきな視線の美しさが印象的であった。
       ジャン・レノ演じるレオンはもちろん孤独の中に生きていてなかなかに素敵なわけだが、この場合、羨ましいのは、守られる少女ではなく、少女という存在を得たレオンではないか?
       
      『関の弥太っぺ』が10年という時間を置いて、ずっと幼い頃の恩人を慕うという一途な恋を拒絶することでしか弥太郎の孤独を表現できなかったのが、日本の大衆性の限界なら、
      『レオン』で描かれた、レオンとマチルダの対等な様子、肉欲が介在しないものの、そこには恋があるというところが、欧米映画の大衆性の限界かもしれない。

      孤独な魂のふれあいを、恋ではなく描けないか?
      守られる少女という特権を、見事に描いてくれる作品はないのだろうか?
      前置きが長くなってしまったが、そんな、内なる少女の妄想のような願望を完璧に満たしてくれるのが、『アジョシ』(2010韓国 イ・ジョンボム監督)である。
      監督・脚本をつとめたイ・ジョンボム氏は、最初、主人公のテシクを「中年太りの50代の男を考えてた」とインタビューで語っているから、韓国版『レオン』を撮りたいというのが最初の気持ちだったのかもしれない。
      しかし、「過去のある出来事がきっかけで深く傷つき、世間との関わりを絶って生きている男の心理状態に魅了された」ウォンビンから打診を受け、物語は、「アジョシ」=おじさんと呼ばれるには若すぎる主人公を迎えることになる。
      しかし、それは、精神的に老いるということ、大人であるということ、その決断と、孤独というものを表現する意味においても良かったのではないか?
      少女を救いに行こうとするテシクが、鏡の前で、伸びすぎた自分の髪を剃刀で切るシーンがある。その肉体の美しさと滲む決意は、中年太りの50代には到底表現できない、潔さと無駄のない美しさがある。

      貧しい街の片隅でひっそりと質屋を営んで暮らす元特殊部隊要員の男・テシク(ウォンビン)
      迷子になったら名前も住所も忘れたと言えと言い、夜、酒に酔えば一緒に死のうと言う薬物中毒の母に育てられた女の子・ソミ
      ソミはテシクを慕い、質屋に通ってきている。
      不用意な母が、麻薬の密売、臓器の密売に巻き込まれ、ソミは、組織の人間に誘拐される。
      ストーリーは単純だ、テシクはソミを組織から無事に救えるのか? それだけの物語だ。
      しかし、テシクの瞳に浮かぶ様々な感情が、血が流れ、容赦なく残酷なアクションの中に、複雑で深い、関係と、孤独と、思いを表現している。

      はじめに列挙した作品群の少女たちにくらべれば、ソミはあまりにもやせっぽっちで貧弱だ。しかし、
      「おじさんのことを嫌いにならない。嫌いにになったら、私には好きな人がいなくなるから」
      と叫ぶストレートな言葉。そして、暗さと明るさを同時に持った、少し大人びた姿は、すべての女性が持つ、内なる少女の姿に他ならないのではないか?

      「一人で生きていけるな」というテシクに、ソミは頷く。
      誰かに、命を、今のすべてをかけて守って貰えた記憶さえあれば、人は一人でも生きていけるかも知れないと思う。
      ソミが生きているか、死んでしまったかと、
      テシクが、自らを消すか、法に身をゆだねるかを重ねたシーンが良かった。
      世界を死で閉じるのか、法にゆだねたところで結論は変わらないかもしれないが、世界を生かし続けるのかを表したラストになったと思う。
      「知ってるふりをしたいときほど、しらんぷりをしてしまうんだ。」
      どれほどの感情が渦巻いているのかと思うほどの言葉が、しずかに零れ落ちる。

      残酷であればあるほど、血に染まれは染まるほどテシクの思いが切ないほどに一途に浮かびあがる。
      残酷過ぎると敬遠する人もいるかもしれない。しかし、それがテシクのすべてなのだと思えば、すべてが愛おしくなる。そんな映画である。

                               アジョシ
      category:映画 | by:天晴くん☆comments(0)trackbacks(0)

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