やまんばあかちゃん

2014.05.11 Sunday 22:08
0
                  やまんばあかちゃん
                  富安陽子・大島妙子 理論社 2011
         

     「最大公約数の原風景」


     富安陽子さんが描く妖怪たちを、民俗学的学術的見解から正しくないという人がいる。富安陽子さんが描く戦争を、戦争児童文学の観点から、加害者国家としての当事者意識に欠けるという人がいる。たぶん、その論は、ある面、正しいのだろうし、作品を論じる上で、当然、ふまえないといけない視点だとも思う。だけど、私は、そんな話を聞くたびに、少し、不愉快になる。自分が大切なものを、正論で踏みつけられて、言い返せない悔しさが気持ちに渦巻く。

     でも! その言葉に続く大きな思いを抱えながら黙り込む。

     畳の縁をまたぐことで現れる異世界を、障子の桟の向うに透けて見える不思議を、死者が帰ってくるお盆という時間だからこそ感じる不在の感触を、私の気持ちは確かに喜び楽しんだ。

     社会的に論じることと、好きだという気持ちの摩擦。好きだという気持ちが勝つことに罪悪感をおぼえながらも、「良い加減」な部分があってこそ異界への扉が開くのではないだろうか? と、いうプライベートな思いを、きっちりと公の言葉で、理論的に説明できない自分を恥じる。

     好きなんだな。

     この身贔屓的苛立たしさは、愛あればこそだ。そして、富安陽子作品の魅力は、その一言につきるのだと思う。自分の身体の中に流れる何かの、大切な部分に直結している。理屈ではないと言ってしまえば、論じようとする紙の上の言葉は、すべて無意味になってしまうけれど、満開の桜、夏の夜の花火、線路脇の彼岸花の列を見たときのように、一瞬胸に焼きつくような情感がある。富安陽子作品の世界観は、我々の最大公約数の原風景ではなかろうか。

     『やまんばあかちゃん』(2011理論社 大島妙子・絵)を読んで、その気持ちは一層深まった。

     大昔、富士山が噴火して、噴火口から大きな石が飛び出してくる。その石が二つに割れて、一人のちっちゃな赤ちゃんが生まれた。

     それが、やまんばあかちゃん。

     動物たちは、この富士のお山からの贈りものをどうやって育てていこうかと会議を開く。子育てなどしたことのない動物たちは、森の賢者・ふくろうおばあさんから、交代で面倒を見るように言われても戸惑うばかり。

     最初の里親は、大イノシシ。イノシシとうさんのもとで、やまんばちゃんは、スクスクと成長し、はいはいのスピードがどんどん速くなる。そして、五日もすると、富士山のてっぺんまで、二十六分で往復できるまでになるのだ。イノシシとうさんは、言う。

    「むすめよ。とうとう おまえに “とっしん・ドーン”のわざを おしえるときが やってきたようだな」

     もちろん、“とっしん・ドーン”は、誰もがイノシシといわれれば思い浮かぶ、全速力での体当たり。“とっしん・ドーン”を習得し、はいはいで、巨大な岩や、倒れた大木もはね飛ばせる様になった、やまんばちゃんに、再びイノシシとうさんは、満足そうに言う。

    「それでこそ、わがむすめ。それでこそ イノシシの子だ」

     次の里親は、森のボスザル。やまんばちゃんは、動物たちを親とし、その視線の中で、育ち、それぞれの、必殺技を得とくし、「それでこそ、わがむすめ」だという言葉をもらう。

     素晴らしい得意技をもった動物たち。それを、あっと言う間に自分のものにしてしまう、やまんばちゃんの成長。さすが、我が娘なればこそと肯定し、称える動物たちの姿。

    単純明快な物語である。きっと、読み語れば、子どもたちは、繰り返す楽しさと、動物たちの必殺技、それを伝授される面白さに笑い転げるに違いない。

     子どもたちにとって、大人と一緒に確かな時間を過ごし、育ち、認められるという、実感は、何よりも尊い。大人たちにとっても、自分の持っている何かを偉大なる特技と自讃し、大切な誰かに伝えられる喜びは、自分の存在の最大限の肯定ではなかろうか。

    愛された記憶と、今、ここに自分がいる意味。本を挟んで、子どもと大人の存在と時間が交錯する。

    それは、大人と子どもの理想的な大きさと、読書の姿であり、たぶん誰の胸にもある、当たり前のようで得がたい原風景ではなかろうか。この感覚は、少し泥臭いノスタルジーを伴う。しかし、富安陽子作品にあるのは、確かな「今」であり、古き良き感傷ではない。次世代のために守らねはならぬ原風景なのだ。

    この土壌の上に、我々は思想や文学論、学問を持つ。ゆえに、富安陽子さんの作品世界は、評論の言葉よりいつも少し大きい。この安らぐような、母の存在のような大きさへの憧憬をいつか言葉でつかまえたいと、論者である私は思う。



                 北海道子どもの本連絡会 
    「北の野火」第27号
    category: | by:天晴くん☆comments(0)trackbacks(0)

    スポンサーサイト

    2017.07.08 Saturday 22:08
    0
      category:- | by:スポンサードリンク | - | -
      Comment








         
      Trackback
      この記事のトラックバックURL

      PR
      Calender
            1
      2345678
      9101112131415
      16171819202122
      23242526272829
      3031     
      << July 2017 >>
      Selected entry
      Category
      Archives
      Profile
      Search
      Others
      Mobile
      qrcode
      Powered
      無料ブログ作成サービス JUGEM