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2015.07.03 Friday
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    テラプト先生がいるから

    2014.03.22 Saturday 22:15
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      『テラプト先生がいるから』
      ロブ・ブイエー 著 西田佳子 訳
              静山社 201307

                 
      テラプト先生がいるから

             今月の書評 「個別のドラマを抱えて」

       

       父が逝った。突然、肝臓の末期癌だと宣告され、四十五日で風のようにこの世を去ってしまった。健康を絵に描いたように輝いていた父が、日に日に死に近づいていくのに目の当たりにしながらも、日常がある。父と行く予定だった海外旅行もキャンセルしなくてはいけない。その手続で不愉快なやりとりがあった。受付の女性が、返金に必要だと契約時に言ったと主張する書類を私は残してなかった。聞いていないと言う私に、女性は言ったはずだから探せと非常識を責めるような不遜さで強固に言い張るのである。事務処理というのは残酷なもので、他に安い旅が見つかってキャンセルする客にも、親が死ぬかもしれない客にも同じことを求めなければならない。私は、かけがえのない父が居なくなるかもしれない一瞬にも、瑣末で、極めて日常的な不愉快が起こる事に怒りよりも寂しさを覚えた。

       もちろん、キャンセルの理由など問われるはずもなく、旅行窓口の女性にとっては日常の、仕事でしかないだろう。私とて日常であれば、彼女の無礼な態度を家族に愚痴として伝え、終わってしまう事かもしれない。

       しかし、私はたぶん一生この出来事を忘れないだろう。日常と非日常が向かい合ってしまった違和感、空虚な思い、その手触りを忘れることはできないと思う。

       目の前にいる人の個別のドラマ。人は、どう優しく敏感であれば、時間と空間を共有するものとして、語られることのない個別のドラマを抱える相手と適切に寄り添えるのだろうか。そんなことを考えているときに『テラプト先生がいるから』に出会った。
       
      この物語は、小学校五年生、同じクラスの七人の子どもたちが、それぞれの口で語っていく一人の新米教師の物語だ。

       悪乗りがすぎるピーター、転校生のジェシカ、自分の力を誇示するために人を傷つけることにかまわないアレクシア、いつも不機嫌なジェフリー、プライド高きルーク、信仰深いけれど封建的すぎる家庭に育つダニエルと、後ろ指さされる母を愛するアンナ。

       教え方がうまく、遊びを交えた、考える教育を実践する新米教師は、若さゆえに子どもたちに好意的に向かえいれられる。

       しかし、子どもたちの自己顕示、大人たちの影響、幼いゆえに知らされない真実は、自身を、周りを傷つける出来事として日常に複雑に絡み合っている。

       テラプト先生は、けして卓越した指導者や偉大な支配者でなく、日常の一人の登場人物として、子どもたちとかかわる。大人の目と常識を持った存在として、重要な局面で、自分の思いを真っ直ぐ伝える。その存在が、子どもたちを少しずつ変化させ、何かが解けていく。子どもたちの家庭環境も、巻き起こるいざこざもけして特別なことではない。テラプト先生もそうだ。よくいる良い先生だと言ってしまうことも出来るだろう。子どもたちの投げた雪球が、思いがけない事件を引き起こしたとき、平凡な日常は、大きく動き出す。テラプト先生への思いが、子どもたちが抱える個別のドラマを一歩前に動かし、整理させ、他者に思いを伝える勇気が生まれるのだ。

       私が親の死と向き合ったことも、誰にでも訪れる平凡な悲しみなのかもしれない。しかし、平凡な個別のドラマは、誰にでもと思えない強さでわが身を打ちのめす。
       
      ジェシカがこんなことを言っている。

      「それとも、相手のことをどれだけ知っているかなんて、関係ないんだろうか。その人のことが大好きなら、それでいいのかも。」

       向かい合う人間の個別のドラマを、我々はすべて知るなんてことは到底できない。しかし、相手を思うことが、相手を知っているということを越えることができるのだと、この本は教えてくれる。平凡なドラマと平凡な言葉。それが自分にとって平凡ではない物語を紡ぐ。
       
      そのことを尊重することが相手と関わるということではなかろうか。それが生きるということなのではないだろうかそんなことを思った。

                    「子どもの本棚」201404

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      思い出の一冊

      2013.10.21 Monday 00:04
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               ミリ子は泣かない (創作子どもの本)

         私は、政治家の二世よろしく、地盤(人脈)と看板(知名度)と鞄(お金!?ウチの場合、本かな?)を引き継いで児童文学と係わっている。母が、35年も前から読書運動に係わっていたからこそ、私のライフワークもあるのだと思う。

         母は、私が、子どもの頃から、誕生日には、その時、私が一番興味をもっている作家の全集をプレゼントしてくれていた。宮沢賢治、芥川龍之介、ヘルマン・ヘッセ、ジャン・コクトー。今も、書棚にずっしりとした背表紙が並んでいる。

         なんだか、そう書くと、親子二代、同じ趣味を持った読書家の歴史のようだが、実のところそうでもない。母と私の読書傾向は全く違う。母は、自分が読んでなくても、私が興味を持っていたら、とりあえず、与えてみる人なのだ。おかげで、私は、誰にも検閲(?)されることのない読書を、自由に楽しめる学生時代をおくっていたように思う。潤沢な物資の提供は、親の期待のあらわだと言われることもあるが、こちらも、そうでもなかった。

         ウチの母は、存外にクールだ。

         与えてもらった後、感想を聞かれたことがないし、本を読んだ、その先に何かを求めている様子もなかった。これは読書に限った話ではなく、余り、こうするべきだと言われたこともないし、逆に、手放しに褒められた記憶もない。

         寺村輝夫さんが、児童研の講演会に来てくださったことがある。

         私が、小学校四年生か五年生のときだったと記憶している。王様シリーズは大好きだったし、ちょうど、同じ年頃のミリ子が大活躍する『ミリ子は負けない』『ミリ子は泣かない』(金の星社 頓田室子・絵 19761978を読んだばかりだったから、とても嬉しかった。

         講演会の内容は覚えていない。裏表紙の写真そのままで、ひげもじゃのやさしそうな人だったと記憶にあるだけだ。その後の出来事が衝撃だったからかもしれない。

         講演会が終わって、お茶を飲んでいる寺村輝夫さんに、突然、母が、私の作文を見せたのだ。ミリ子シリーズの感想だった。当時、担任の先生が、作文教育にとても熱心で、毎週出される宿題で、私は、読書感想文や作文をたくさん書いていたのだ。

         母は、ちょっと自慢げに、私の作文を読んでくれる寺村輝夫さんを見ていた。

         これには、私はおどろいた。クールだと思っていた母親が、親ばかだったことを知った。

         寺村輝夫さんは、読み終わると、「よく書けてますね。ありがとう。」と、言った。母に似てクールな小学生だった私は、作家の立場では、子どもの作文を、その親から見せられたら、そう言うしかないよなぁと、どこかで思っていた。しかし、くすぐったいような、うれしい感情は、母親が、世間の母親と等しく親ばかだったことを知ったからなのか、作者に感想を読んでもらえた喜びなのか、よくわからないまま、私の胸に残っている。

         読み返すと、人権的配慮から現在では使われなくなった言葉があるものの、今読んでも新鮮だ。ミリ子が、ストレートに自分の気持ちを表明することで、共感を巻き起こし、おせっかいだと避けられ、衝突し、仲直りして進んでいく。クラスの日常と事件。傷ついても、失敗しても、けして、人のせいにせず、徒党も組まず、立ち止まらない。それでいてクラスメイトの心をひとつにしていくミリ子の姿が爽快な物語だ。ミリ子は、自分の行動を全部自分で引き受けているのだ。

         扉に、寺村輝夫さんのサインがある。それを見るたびに、私は、今もクールな姿勢を崩さない母親が、実は、親ばかであることを思い出し、少し甘酸っぱい気分になる。

                彦根児童図書研究グループ 会報 201110

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        カフェ・デ・キリコ

        2013.06.07 Friday 23:35
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           『カフェ・デ・キリコ』
           佐藤まどか 作 講談社 201304

                        カフェ・デ・キリコ

               私のすすめる本『カフェ・デ・キリコ』

               「孤独をエンターテイメントとして描く」

           
          名優ダニエル・デイ=ルイスが自身三度目のアカデミー主演男優賞を受賞した話題作「リンカーン」は、リンカーンの孤独を見事にエンターテイメントとして映像化している。
           
          奴隷制度廃止の合衆国憲法修正第13条を下院議会で批准させることへ、議員たちが是と言うか、非と言うかの決断と選択にのみ焦点をあて、登場人物各々の生活者としての利害と生き様がむき出しになる渦の中、自分の信念をいかに形にするかという戦いを強いられるリンカーンを描く。どんなに正論でも、批准させなければ意味をなさない。正義をかざすだけでは動かない現実を動かすことは、思いや正義より議会で批准されることを選ばなければいけない矛盾を伴う。矛盾が軋みを生みリンカーンの孤独を浮き彫りにするのだ。
           
          『カフェ・デ・キリコ』は、イタリア人の父の死をきっかけに、母とミラノに移住をした中学二年生・霧子の物語。石畳の道、芸術との近さ、バリスタの声、エスプレッソの香り、そんな言葉に彩られた異国に舞台設定したことで、大仕掛けな物語展開もストレートすぎる言葉のやり取りも無理なく読ませ、少女の繊細で普遍的な心理や孤独をエンターテイメントとして描くことに成功している。
           
          霧子は、父の交通事故の直後、会うこともなく亡くなった祖父の遺産を、ただひとりの孫であるという理由で相続することになる。条件は、祖母が営んでいた、ギャラリー・カフェ「カフェ・デ・キリコ」を継ぐこと。
           
          父を勘当した、祖父のその後とは?
           
          父が死んだ時、母はどこにいたのか?
           
          隣家に住む血のつながらない兄弟ダヴィデとアンドレアを含め、カフェを訪れる人々が、常連になるにつれ、皆のプロフィールが明らかになる。それは、祖父と母の深い確執も露呈させ、霧子は狼狽する。 
           
          「人生の三つの試練。それは、愛すること、忘れること、そして許すこと。」

           人間関係もまた、あるべき正義では構築されない。それは、一人の少女が、差別にも区別にもとれる、一般イメージばかりを背負った異国人から、その場所にいる霧子・デ・キリコとして、一個人の像をくっきりと結び、居場所を勝ち取っていくプロセスでもある。
           
          通常孤独の確認は内省的な作業だ。しかし、正論との矛盾を舞台に仕掛け、普遍性と深度を維持したまま、舞台設定の妙で、主人公の孤独や不安を、独白ではなく映像としてあぶり出している。この映画的エンターテイメント性は間違いなく、多様で多くの読者を獲得していくのではないだろうか。


                          北海道子どもの本連絡会
                          子どもの本の ひろば 
                            第125号 20130604
                                     

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          64 ロクヨン

          2013.05.04 Saturday 10:03
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                                                       64
                                                 横山秀夫 文藝春秋 201210

             7年ぶりの新刊である。
             10年余り前、直木賞を巡るつまらないいざこざで、横山秀夫はベストセラー作家としての最前線を自ら離脱。
             新聞記者出身の作者が、その真価を疑われるような「イチャモン」を直木賞選考の席の話として報道されたことは、プライドを殴りつけられたような憤りを感じたであろうことは、ファンとしても容易に想像がつくわけだが、あえて「つまらないいざこざ」と呼びたい。
             それだけ、待っていたのだ。

             読みながら何度も胸がつまった。
             組織の理屈を通しながら、これだけ組織に生きる人間を、人間らしく格好良く描ける作家がほかにいるだろうか。大組織に絡められた不自由さの中で、記号化していく人生の中で、その与えられた、身の幅三センチしかないかもしれない自由の中で、人はこれほど誠実に、自分らしくあれるのだ。その力強さと誠意が描けるのは横山秀夫しかいまい。
             しかし、10年弱の沈黙が、横山秀夫の描く組織を古臭くしてしまった憾みは拭えない。それは女の扱いである。警察組織は一般企業より遅れているのだといわれれば、門外漢である私は、そうかと頷くしかない。これは、リアリティの問題ではない。女をどう扱うか? それは、今後、男性のための神話のようなハードボイルドにおちいらないためにも、組織を描く作家としての横山秀夫の課題になっていくに違いない。
             広報部のアイドル美雲が、自分の役割を越えて、上司の役にたちたいと切望する成長。そして、自分の穢れなき理想を美雲に背負わせていたことに、三上が上司として自分に課していた枠に気づくシーンは、新しさを感じた。しかし、アイドルと妻(現場にいない元・アイドル)の存在だけでは、所詮女性は組織外の仇花にしかなれないのではないか。
             横山秀夫の描く、組織人として、男より男らしい女に期待したい。
            「この男の下で、もう一度働きたい−。」
             男であるとか、女であるとか、そんな話ではなく、窮屈である組織で働くものは、誰もが、そんな上司と出会い、そんなセリフを心から吐いてみたいのではないだろうか。

             思いもよらなかった、広報官への人事異動。刑事の仕事に誇りを持っていた三上は、忸怩たる思いを抱えていた。腰掛のつもりの広報部。しかし、現場の刑事部からは、キャリアが牛耳る刑務部の「犬」として敬遠され、満足に記者クラブに発表する情報も与えてもらえない。自分がこれまで築いてきたはずに人間関係の危うさに総毛立ちながら、三上は己の良心と向き合う。
             強面の刑事だった、三上が、強面の広報官として、警察の窓たる広報部の長として、真たる報道ではなく戦うことだけが日常だった記者クラブと、横着に自分たちの理論で情報を操作しようとする警察の間にたち、お互いの信頼とプライドに出会い、組織の一員としての役割を果たしながら、理屈を通していく。限られた裁量を機軸に、真実の部下を得るまでの話だ。
             表題の「64」は、D県警でおきた、未解決事件。
             昭和64年・・・昭和天皇崩御により、平成元年と呼ばれるまでの数日に起きた誘拐事件だ。誘拐された子どもは遺体で見つかり、身代金を奪われたまま、犯人は捕まっていない。
             そして、三上は、広報官の仕事として、東京から、64事件を風化させないために長官が来る段取りを任される。被害者の父・雨宮に、長官の焼香をOKさせることと、地元記者たちに長官へのぶら下り取材をつつがなく実行させること。その神経が磨耗するような日常的な作業のなかで、三上は、長官が本当に来る理由はなんのかと疑いたくなるような、見過ごせない違和感に出会うことになる。
             長官が来る意味、本庁の意図はなんのか?
             長官がくる前日に起きた「64」事件を模倣した誘拐事件。
             そして「64」事件の顛末は?
             広報官として今を生きることを決意した、三上が乗り込んだ指揮車。そこで指揮をとる、かつての上司・松岡への未練。部下としてではなく、広報官として、「お供ができる」と言い切れるまでの心の動き。
             そして、同期でもあり、同じ大学の剣道部出身の、陰の人事権者と呼ばれる二渡の存在。
             刑務部のエース・二渡の底を見せぬ闇のなかにふと光る正義。
             そして、三上の自分を追い込むことを承知でみせる怒りと焦りが、組織を好転させていく。
            「現実を受け入れろ。ここは剣道部の部室じゃないんだ」
             二渡のセリフ。補欠だった二渡の暗い目と、大将選にでる腕だった三上との関係は、その頃の関係をお互いに残したまま、今がある。
             陰を歩いてきた男と、陽のあたる道を歩いてきた男。
             陰は陰を極め、陽があたるがゆえの貧乏くじもある。そこには、未来、再びどう転じるかわらない生きている途上の二人の存在がある。
             
             三上の独白は圧巻だった。

             どんな我慢もしてきた。家族のために・・・・・・。
             違う。そうではなかった。家族を弾除けにしてきた。自分が可愛かった。組織で立場が危うくなるたびに、家族に託つけて我慢のカードを切ってきた。わかっていた。家族などなくても生きられるが、組織の中で居場所を失ったら生きていけない。自分はそういう種類の男だと認め、受け入れない限り、死ぬまで己を語る方法を見出せそうになかった。
             気持ちが醜く歪んだ。

             組織があり人がいる。
             やはり、我々は、与えられた組織、その持ち場の中で、職務を全うしながら、自分らしく、自分に恥じない生き方を模索するしかない。
             今を生きるしかないのである。
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            そこに僕らは居合わせた

            2013.01.20 Sunday 13:55
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              『そこに僕らは居合わせた』

                語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶 

              グードルン・パウゼヴァング 作
              高田ゆみ
              子 訳 みすず書房

                              201207
              そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶

              「全体主義の狂気」

               テレビで、政治に関するニュースを見ていて、ひどく不安になることがある。その場で語られていることの是非ではなく、どの局も、まるで言い合わせたように、政治的案件に対して否定しかしないからである。勿論、否定し糾弾すべきこともあるが、問題点も代替案も棚上げし、論議もなく、正義面して、NOを突きつけることだけに意義を感じているような報道姿勢は、極めて陳腐だ。過去、日本のマスメディアは、プロパガンダに利用された恥ずべき事実がある。戦後、自由な言葉をパブリックに発信できる喜びを獲得してきたはずだ。しかし、自由と反抗が、形骸化する中で、権力にNOと言うことが、報道の役割になってしまったのではないか。極論すれば、思考停止、画一的報道は、戦中のプロパガンダと全く同じなのではないだろうか。

               この本は、ナチス支配の時代の普通の人々の日常、戦場ではない場所での、戦争の破壊行動。その場に生きた人々のその後、今に続く、人生の暗い影を描いた短編集である。

               物語の多くは、当時子どもだった筆者が見聞きし、体験した実話だと、あとがきにもあるが、ノンフィクション的な匂いは廃され、物語として書ききっている筆力に、かえって、筆者の決意と責任を感じる。

               時代も切り込み方も違うので、読む人によって心に残る作品は違うだろう。私は、「おとぎ話の時間」という一編が胸を離れない。

               主人公は、十歳の少女「私」。大好きな優しい先生に、土曜日の最後の時間、お話や本を読んでもらうことを楽しみにしている。

              それは、ドイツ政府の秘密司令のもと、ユダヤ人教会やユダヤ人商店街の多くが破壊、略奪された夜の二ヶ月ほど前のことだった。

              おとぎ話の時間、先生は、歯医者に行った女の子の話をする。診察室から出てきたのは、鈎鼻に黒い巻き毛、肉厚の下唇、大きく出っ張った耳の太った医師。ユダヤ人の特徴だと、学校などで何度も教えらえた容姿の男である。歯医者は、女の子が待合室で仲良くなった、金色の巻き毛の少女を診察室に連れて行く。

              「先生、やめてください。お願いです。先生!」

              大きく哀れな声がして、扉の向こうは静かになる。再び現れた歯医者に「おいで」と手を伸ばされ、女の子は大急ぎで逃げ出す。

              「強姦」「婦女暴行」が匂わされる恐怖の中で、歯医者が巻き毛の少女に何をしたのかは、自分でよく考えてごらんなさいと先生は言い、恐ろしい話の結末はうやむやにされてしまう。

              戦争が終わり、ナチスの恐怖は過去のものになった。しかし、大人になった「私」は、今でも、子どもへの性犯罪を扱ったニュースを耳にすると、まず先生が露骨な表現で描写した歯医者の姿を犯人像として浮かべてしまい、そんな自分を責める。不吉な連想、はかりしれない影響、解放されることのない毒された思考は、理論的な正義と平和への思いを獲得した後も、「私」の人生を蝕んでいるのだ。

              筆者は、あとがきで記す。

              「まもなく時代の証人はいなくなるでしょう。あの時代の恥ずべき行為が忘れ去られることがないよう。私はこの書を世に送り出します。人間を踏みにじる政治は、もう二度と行われてはなりません。それはドイツでも、他のどんな国でも同じです。」

               騙され欺かれた子ども時代、その負の歴史を、描いた先人の気概に応える読者であらねばならぬと思う。それが、今、この時代に居合わせている我々の責任ではないか。我々は、自分の価値観を信じている。平和は尊い。戦争はしてはならない。しかし、その真実の意味と実現へのプロセスを自分の言葉で考えることを怠れば、それは時代の価値観でしかなく、普通の人々が正しいと思い込んで戦争に加担した、あの頃の状況と全く変わりはないのである。人間の弱さと強さを見据え、再び全体主義の狂気に飲み込まれないよう、世の中のあり方を自分の言葉で考えなければならない。この本はそんな思いを突きつけてくる。

                                        『子どもの本棚』201302

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              たまゆら

              2011.09.30 Friday 21:56
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                  お気に入りの「知恵袋」がある。
                 「知恵袋」とは、ご存知の通り、匿名の質問に匿名で答えるネット上の交流システムだ。
                 読書の質問。高校生と自己紹介した人物が、おすすめの本を問うている。
                 答えるのもまた、高校生と名乗る人物。その回答がなかなか良いのだ。
                 ドストエフスキー、パルザック、夏目漱石などを好きだと列挙し、一番深いのは、聖書や神話の世界だとまで書いている。質問者は、そんな回答を求めていたのだろうかと疑いたくなるが、ベストアンサーに選んでいるくらいだから、質問者の感性にもふれたということだろう。なんだか、二人の高校生が背伸びをしている様子を見せられているようで、微笑ましくなる。しかし、私が気に入っているのは最後の一文だ。
                「青春ものならあさのあつこさんをお勧めします。」
                 さっきまで、ギリシャ神話を読めとか、ダンテは自分も手を出してないと書いている同じ流れで、あさのあつこの名前が出てくる。
                 なんだか愉快に思った。
                 この文面を、斟酌してこそ、高校生という生き物が正確に捉えられるのではないか。そんな気がしてくる。

                 この本は、青春小説ではないが、青春ものとあえて呼びたくなるような作品だ。
                 青い春。それは、痛々しいほど真摯で抜き身の刃のような人生の一時期である。その時期に出会ってしまった、二組の男女の物語だ。

                 「たまゆら」とは、辞書を引くと、「玉響」と書くらしい。「少しの間。ほんのしばらく。」という意味の副詞。玉がゆらぎ触れ合うことのかすかなところから、「しばし」「かすか」の意味に用いられたとのこと。

                 人生とは、「たまゆら」神から与えられた無常の一瞬なのか。
                 出会いとは、運命とは、扉をノックする「たまゆら」の隙間に訪れ、人の心に永遠に住み着くものなのか。

                 物語は、雪深い、人里離れた小屋のような家の中を想像させる場面から始まる。繰り返す言葉。短い文章。それは、降り積もっていく雪のようで、読者は、少しずつ、その家の雰囲気、語る「女」の輪郭、伴侶であろう老人の容姿を拾い集め蓄積していく。
                 時代は? 語り手の年齢は? 読者は、ゆらゆらと視線をさまよわせながら、物語に添うことを試みる。
                 その家に、来客がある。
                 光沢のある上着。明るい灰色と桃色の二色に分かれたきれいなアノラック。
                 物語は、そこで初めて色を持つ。遠くはない、距離も時代も近い世界の話なのだと、読者は自分に引き寄せ物語を読み始める。

                「 娘さんの目がわたしを見やった。わたしを見積もっているようにも、途方にくれているようにも、縋っているようにも感じられる。それらの全部が綯い交ぜになっているようにも、わたしの及びもつかない感情がせめぎ合っているようにも感じる。狡猾にも、儚げにも、純粋にも、存外逞しくも感じる。よく、わからない。
                 人の目が映し出す人の心は、いつも謎めいている。」

                 事情を抱え山を登ろうとする人々。彼らを受け入れて山へと送り出し、万一帰る人がいれば迎え入れる老夫婦。山小屋は人の世と山との境界線上にある臨界点。

                 二つの殺人事件が、時代を越えて交錯し、二組の男女、そして彼らに絡む人々の愛と、執着と、心の闇と、純粋さを浮き彫りにしていく。

                「 輪郭のある強い、若い声だった。」

                 山から、人の世に戻ってくる意味を、赦しと償いの意味を、救いの意味を、人は問いかけながら、生き続けるものなのかもしれない。

                 恋愛小説として捉えるならば、この物語の新しさは、女から見た理解不能の「男という生き物」を描いた点にあるのではないだろうか。
                 男が、女が分からないという場合には、その存在自体を指すが、
                 女が、男が分からないといった場合には、その「性」のあり方を指す場合が多い。
                 殺人という形でしか自己を表現できなかった男たち。そこに広がる闇。
                 性的な場面が出てこないわけではない。しかし、この物語は、sexを越えた「男という生き物」の存在を不可思議なものとして捉えている。
                 一人は、責任を感じても、罪は彼が背負っているもので自分のものではないという事実を抱きながら生き、一人は、それを越えてなお愛そうとする。

                「 山は人には解せませんからの
                 人は決して山をすることができませんで。こういうもんだと、一人勝手に思い込むことしか、できませんでの
                 山は深いです。真帆子さん、山てものは人の思い込みなんぞ粉々にするほど、深いもんですけの」

                 読み終わった後も、山は読者の胸に残る。山を、人生や男という存在の象徴と捉えてスッキリとするほど単純な物語ではない。
                 心の闇と、記憶の闇が交錯する場所。読者もまた彷徨う。人は皆、こういう場所を心のどこかに持ちながら生きているのかもしれない。  


                 

                                        たまゆら(新潮社)

                              あさのあつこ 新潮社 201105
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                アジョシ

                2011.09.26 Monday 23:58
                0
                  おじさんと少女という設定が好きである。
                  なんだろう。兄でもない、父でもない、恋人でもない、しかし、そのすべてである他者の見つめる先に、未成熟な存在「少女」がいる。その感じが好きなのかもしれない。
                  絶対的に守られる。絶対的に愛される。
                  それは、少女だけの特権だと思うからかもしれない。

                  『関の弥太ッぺ』(1963東映 山下耕作・監督)は、自分の中でベストと呼べるほど、本当に好きな作品である。
                  幼い妹と生き別れになった関の弥太郎(中村錦之助)は、川で溺れそうになった娘・お小夜を助ける。それから、10年の月日が流れ、任侠の世界に生きる弥太郎は別人のように荒んだ顔になり、お小夜は、美しい娘に育つ。弥太郎を、ずっと慕い続けるお小夜。
                  弥太郎とお小夜は再会するが、名を問われ、「渡り鳥には名前はありやせん」と答える。
                  「この娑婆には哀しいこと、つれえことが沢山ある。忘れるこった。忘れて日が暮れりゃ明日になる。ああ明日も天気か。」
                  幼い日にも聞いたその言葉に、お小夜は、目の前の刀傷の男が慕い続けたその人だと知るが、二人の間には、美しい花が咲く垣根があり、お小夜が回り込むうちに、弥太郎は果し合い向かい立ち去ってしまうのだ。
                  しかし、おじさんと少女という設定だけで言えば、住む世界が違うのだと、女の純粋な恋を拒む、男の色香、その分をわきまえたストイックな姿が良いのであって、少女には感情移入する隙間がない。

                  では、少女側が魅力をもったものを考えてみると、

                  『白い婚礼』(1988フランス)は、哲学教師とヴァネッサ・パラディ演じる教え子の禁じられた愛とその破滅を描いているが、少女が性的に誘惑体でありすぎるように思う。

                  『レオン』(1994アメリカ・フランス合作)は、この組み合わせを聞いて、誰もが一番に思い浮かべるタイトルではないか。
                   凄腕の寡黙な殺し屋と12歳の少女の純粋な愛を描いたこの作品は、スタイリッシュな映像と、少女マチルダを演じたナタリー・ポートマンのひたむきな視線の美しさが印象的であった。
                   ジャン・レノ演じるレオンはもちろん孤独の中に生きていてなかなかに素敵なわけだが、この場合、羨ましいのは、守られる少女ではなく、少女という存在を得たレオンではないか?
                   
                  『関の弥太っぺ』が10年という時間を置いて、ずっと幼い頃の恩人を慕うという一途な恋を拒絶することでしか弥太郎の孤独を表現できなかったのが、日本の大衆性の限界なら、
                  『レオン』で描かれた、レオンとマチルダの対等な様子、肉欲が介在しないものの、そこには恋があるというところが、欧米映画の大衆性の限界かもしれない。

                  孤独な魂のふれあいを、恋ではなく描けないか?
                  守られる少女という特権を、見事に描いてくれる作品はないのだろうか?
                  前置きが長くなってしまったが、そんな、内なる少女の妄想のような願望を完璧に満たしてくれるのが、『アジョシ』(2010韓国 イ・ジョンボム監督)である。
                  監督・脚本をつとめたイ・ジョンボム氏は、最初、主人公のテシクを「中年太りの50代の男を考えてた」とインタビューで語っているから、韓国版『レオン』を撮りたいというのが最初の気持ちだったのかもしれない。
                  しかし、「過去のある出来事がきっかけで深く傷つき、世間との関わりを絶って生きている男の心理状態に魅了された」ウォンビンから打診を受け、物語は、「アジョシ」=おじさんと呼ばれるには若すぎる主人公を迎えることになる。
                  しかし、それは、精神的に老いるということ、大人であるということ、その決断と、孤独というものを表現する意味においても良かったのではないか?
                  少女を救いに行こうとするテシクが、鏡の前で、伸びすぎた自分の髪を剃刀で切るシーンがある。その肉体の美しさと滲む決意は、中年太りの50代には到底表現できない、潔さと無駄のない美しさがある。

                  貧しい街の片隅でひっそりと質屋を営んで暮らす元特殊部隊要員の男・テシク(ウォンビン)
                  迷子になったら名前も住所も忘れたと言えと言い、夜、酒に酔えば一緒に死のうと言う薬物中毒の母に育てられた女の子・ソミ
                  ソミはテシクを慕い、質屋に通ってきている。
                  不用意な母が、麻薬の密売、臓器の密売に巻き込まれ、ソミは、組織の人間に誘拐される。
                  ストーリーは単純だ、テシクはソミを組織から無事に救えるのか? それだけの物語だ。
                  しかし、テシクの瞳に浮かぶ様々な感情が、血が流れ、容赦なく残酷なアクションの中に、複雑で深い、関係と、孤独と、思いを表現している。

                  はじめに列挙した作品群の少女たちにくらべれば、ソミはあまりにもやせっぽっちで貧弱だ。しかし、
                  「おじさんのことを嫌いにならない。嫌いにになったら、私には好きな人がいなくなるから」
                  と叫ぶストレートな言葉。そして、暗さと明るさを同時に持った、少し大人びた姿は、すべての女性が持つ、内なる少女の姿に他ならないのではないか?

                  「一人で生きていけるな」というテシクに、ソミは頷く。
                  誰かに、命を、今のすべてをかけて守って貰えた記憶さえあれば、人は一人でも生きていけるかも知れないと思う。
                  ソミが生きているか、死んでしまったかと、
                  テシクが、自らを消すか、法に身をゆだねるかを重ねたシーンが良かった。
                  世界を死で閉じるのか、法にゆだねたところで結論は変わらないかもしれないが、世界を生かし続けるのかを表したラストになったと思う。
                  「知ってるふりをしたいときほど、しらんぷりをしてしまうんだ。」
                  どれほどの感情が渦巻いているのかと思うほどの言葉が、しずかに零れ落ちる。

                  残酷であればあるほど、血に染まれは染まるほどテシクの思いが切ないほどに一途に浮かびあがる。
                  残酷過ぎると敬遠する人もいるかもしれない。しかし、それがテシクのすべてなのだと思えば、すべてが愛おしくなる。そんな映画である。

                                           アジョシ
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                  江(ごう) 浅井三姉妹 戦国を生きた姫たち

                  2011.05.14 Saturday 20:58
                  0
                     二年ぶりである。
                    やはり誕生日前になると、やりたいことは? などと思いを巡らし、数年前の出発点に戻ったりする。
                    今度は、少し、長続きすると良いのだけれど。



                                     江(ポプラ社)
                                               
                                 越水利江子 ポプラ社 201103


                     日本人俳優が多く起用されたことが話題になった「ラスト・サムライ」(2003 アメリカ・ニュージーランド・日本合作)はロードショーで見た。全体の印象は可も無く、不可も無く。
                     しかし、勝元盛次(渡辺謙)の妹・たか(小雪)が、ネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)に好意を寄せる心情を、たかが、大尉に「着物を着付ける」シーンに象徴させたことは、衝撃的で今でもはっきりと心に残っている。脱がすのではなく、着せるという行為で愛を深める。このもどかしく、曖昧で、美しいシーンに象徴された、日本女性の愛の表現とエロチシズムは、日本人の感情と美意識を巧みに捉えていると思ったからだ。
                     極めて翻訳的なシーンだとも思う。
                     しかし、時として、博物館で、漢字で書かれた学問的な解説よりも、その下の、英語で書かれた説明書きをとつとつと読んだ方が理解できるという経験は、誰にでもあるのではないだろうか。このアプローチは、「腹芸」や「秘めたる」という言葉はおろか、その心情が美しいものだという認識さえ、過去のものとなってしまった現代の日本において、自国の美しき心情表現と再度コンタクトをとり、言葉を再構築していくうえで、確かな手がかりになると思った。

                     『江(ごう) 浅井三姉妹 戦国を生きた姫たち』を読んで、ふと、この時に似た感情が湧き上がってくるのを覚えた。
                     
                     織田信長の妹であるお市の娘、茶々、初、江の三姉妹。豊臣秀吉の養女、そして三代将軍・徳川家光の母になった江の物語である。歴史好きの人でなくても、なんとなく輪郭は知っている。そんな物語だと思う。

                     夫・浅井長政を死に追いやった兄・信長と市が、幼き日の二人のの思い出を確認するシーン。
                    「そうでございましたでしょうか」
                    「そうであったさ・・・・・・」
                     立場ある大人として再会せざるをえなかった兄と妹が、抱える、お互いへの思いと、思い出。思い出その時の、背丈の差、大人になった今は、感じもしなくなった年の差まで感じさせる言葉だ。

                     そして信長は、本能寺で最後の時を迎える。
                    「乱よ、最後のつとめだ、わしの首・・・・・・いや、髪の一本もこの世にのこすな。すべて消し去れ」
                     
                     再び、庇護者を失った、市と三姉妹。泣く江に、市が言う。
                    「兄上に恥じよ」

                     柴田勝家の思いと、忠義。

                     江から見た大人たちの姿は、それぞれの人生、言葉と思いを抱えながらも、すれ違いざまに肩が触れ合うような短さで言葉を交わす。しかし、そこに、その人の生き方さえ滲む、潔いシーンに仕上がっている。

                     秀吉軍に下り、父の敵の前では泣かぬとい言った、茶々が、秀吉の子を、自ら望んで身ごもったことを知らされた衝撃。
                     江の驚きは、歴史を知っているはずの読者の胸にさえ、迫ってくるものがある。
                     そういう立場であること、生きる意志、少女ではいられなくなった事実。
                     歴史的な意味はもちろん、人一人の人生とて、一面的には捉えられない。キーワードのような、言葉と行動が、歴史をかたどり、また歴史が人を奔騰していく。

                     ここから、急展開を見せる物語をいちいち論じることはすまい。
                     この物語を読んでいると、この時代、江たちが確かに持っていた、強さと美しさは、自分の中にも生きていると感じる。
                     この物語は、多くのことを含み、そして、多くのことを語らずに閉じる。
                     それが美しく、語られなかった美しき心情は、確かに読者の胸の中にある。
                     この風土に生まれ育ったものがもつ美意識は、死語の壁に阻まれてもなお、言葉にならない思いとしてそれぞれの血脈の中で育ち続けているのだと思う。
                     のびのびと少女らしく、乱世を駆け抜ける「江」の姿。それは、映像的、翻訳的アプローチで、日常の中で忘れていた、幼い読者たちには、もはやそれを表す言葉さえないであろう、心の中の美意識を探ってくる。

                     破顔一笑

                     江が、再会を果たした、初恋の人は、手に取るであろう年齢の子ども達には少し難しく、それゆえに印象的な言葉と共に、しっかりとした、その姿、イメージを読者の胸に残して消える。
                     この時、歴史は知れば知るほど、道具でしかない女性たちは、自律的物語を失うのではないかと思っていた私の常識は砕け散った。

                     ここには、歴史という大きな波に飲まれてもなお、自分だけの物語を抱えた少女の人生がある。
                     その姿が、尊くも美しいと感じる読者も、また、自分だけの物語を欲する存在だということだ。

                     そして、その共感の中で、なぜ、この物語が、自分の中に、尊く美しく溶けるのか言葉を捜す。
                     人と人の距離、その距離の美しさ、途切れた言葉に感じる含み、せつなさ。雄弁な空気。

                     この物語は、今年、大河ドラマの主人公である「江」という少女の、波乱の人生をわかりやすく教えてくれるだけではない。自分の美意識に繋がるなにかを、巧みにあぶりだす。

                     「かっこいぃなぁ〜」

                     まずは、そんなありきたりで陳腐な言葉をつぶやいてみようではないか。
                     すべての、大切な何かへのアプローチは、まずは、そこから始まると思うのだ。 
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                    BOSS  case07

                    2009.06.03 Wednesday 21:58
                    0
                        天海祐希が「警視庁捜査一課特別犯罪対策室」の室長・大澤絵里子を演じるスタイリッシュな刑事モノである。
                       フジテレビにて、毎週木曜日PM10:00〜放映されている。
                       なかなか、当日見ることが出来ず、ビデオ録画に頼っているのだが、天海祐希のBOSSぶりに、なんだか励まされるような気がして、私にしては、なかなか良いペースで見ていると言える。

                       天海祐希自身が、オフィシャルサイトのインタビューで、「警察が舞台になっているが、その組織の中で繰り広げられる人間模様は、一般社会にも重ね合わせられるものだと感じている」と言うような事を語っているが、働く女性にとって、大澤絵里子の存在は、自分を投影する共感体であることに違いない。
                      (もちろん我々の大多数が、美貌も才能も・・・ましてや役職、活躍の舞台などはないわけだが)
                       女性であるが故、組織のアピールに利用されるところや、どこか軽んじられ、何かあったら切り捨てられようとする危なっかしさ・・・きっと絵里子に比べたら、我々の身の回りでは取るに足りない事しか起きていないのだろうが、既視感のある職場風景なのである。

                       (話の大筋からは外れるが、戸田恵梨香の存在もこのドラマを気に入っている大きな理由だ。可愛い顔をして、かなり癖のある役を好む女優さんだ。今回の、科学捜査班から配属された、社会適応能力皆無の木元真実もかなり良い!)

                       さて、本日見たのは、 5/28放送のcase07である。

                       富田靖子演じる高峰仁美は、潔癖に生き、正義を貫いているとされるジャーナリスト。しかし、彼女は、スクープをものにするために、人を見殺しにした過去を持もっていた。そして、それを隠すために2人を殺し、罪を重ねる破目に陥る。
                       証拠を積み重ね、大澤絵里子に追い詰められた高峰は罪を認める。

                      「どうしてなの?」
                       ここから続く天海祐希の台詞は、圧巻としか言いようがない。
                      「心に弱さがあるのは、当然!
                      でも、その弱さに負けちゃいけない人間もいる。
                      プライドがあったはずでしょ。」
                       なんだか、活字におこせば、変哲もない言葉だ。しかし、
                      「プライドがあったはずでしょ。」
                       切れば血が吹き出るような痛切な言葉を、天海の声で聞いたとき、なんだが、弱い自分が思い当たり、不覚にも、ぐっときてしまった。

                       追い詰められたジャーナリストは言葉をつなぐ。
                      「事件には声があるの。ほぉっておいても誰かに聞いてもらえる声もあれば、小さくて誰にも届かない声もある。私は伝えたかった。小さな声を伝えるためには私が大きくならないといけない。だがら、」
                       その声をさえぎって、大澤絵里子は言う。
                      「それは違う。
                       あなたの言葉に温度があれば、例えどんなに小さな声でも、誰かには必ず届く。そうじゃない?」

                       二人の仕事に生きる女性の言葉には、どちらにも真実がある。

                       この二人が、もっと以前から友だちであったなら、こんな事件は起こらなかったかもしれない。いや、気持ちのどこかでは、何も起こらない状況下では、この二人が友達になることはなかっただろうとも思う。

                       自分を支えるのも自分、理想を忘れないでいるのも自分。
                       突っ張って自分の理想を追い求める生き方には、リスクと孤独が付きまとう。

                       最近の企業は、家庭をもって子どもを育て、働くお母さんを大切にする。そういう環境の人が心地よく、会社に残れるように制度を固めることこそ一流企業の証だという考え方がある。もちろんそ自体は大切なことであり、真実でもあり、歓迎すべきことだ。しかし、企業は、それもイメージ戦略。
                       ライフバランスこそが、社員の鏡であるともてはやし、光を当てる。
                       キャリアウーマンという言葉に理想を込めてきた、1960年代生まれの戦士たちは、人間的に偏っているのではないかという評価をもらったところで、光が当らなくなったところで、仕事に心血を注いできた自分を簡単には捨てることは出来ない。
                       プライドの問題なのだ。

                       ドラマの中でも、部下の言葉に反応して、大澤絵里子が
                      「別に、独身を貫いてきたわけじゃないわよ〜」
                      というシーンがあるが、その通りだろう。

                       しかし、誰にも、時代にさえ振り回されない強さが、大澤絵里子にはある。
                      うらやましいと心から思う。

                       温度ある言葉を持ち続けられるように。私も、また明日から頑張るとしよう。

                       その言葉は、必ず・・・・誰かに届くのかなぁ。
                       

                      ひかる! 本気<マジ>。走る!

                      2009.06.02 Tuesday 23:25
                      0
                                           
                                    後藤竜二&スカイエマ そうえん社 200905       

                         集英社文庫・太宰治『人間失格』のカバーを『DEATH NOTE(デスノート)』の小畑健のイラストに変えたところ、夏の3カ月で10万部を突破するヒットになったのは記憶に新しいところだ。
                         この営業活動には賛否両論あるだろうが、俗人の私からすれば、表紙に魅かれて、普段自分が読まない本を読む事は勿論、ファッション的にカッコイイからその本を持ち歩くというのも大歓迎だ。
                         本は読むものではあるが、読むだけのものではない。
                         例えば、読めもしないヘルマン・ヘッセのドイツ語の原書を持ち歩くことも、お洒落は足元こそと、頑張って靴擦れを我慢しながらフェラガモの靴を履くことも、自分の美意識に自分を合わせようとする尊い行動であると私は思う。

                         最近は、児童書も「ジャケ買い」のするのだそうだ。
                         なかでも、スカイエマのシャープで、アクティブで、洗練された、まさしく現代的な知性を感じる絵は、児童書というものに対する一般の人々のイメージを変えるくらいのインパクトがあったのではないだろうか。
                         タイトルの『ひかる!』シリーズは弟3弾。後藤竜二の、短くて含みのある文章が、ビジュアルのインパクトを超える真剣勝負凄まじい作品である。
                         ひかるの、まっすぐで硬質な学校生活を、文章と絵が、全身で表現している。

                         四年生のひかるが、代表委員の全校代表になる。そのことを、父の位牌に報告するまでのシーンが良い。

                         「報告してあげて、すごく、よろこぶ。」
                         おみそ汁におとうふを入れながら、やわらかな声でいった。
                         「ふぁーい」と、おどけて、わたしはとなりのマーちゃんのへやにはいった。
                         すぐに居間にもどるつもりだったから、ドア開けっぱなしで電気もつけなかった。

                         よこにスカイエマの絵がある、ひかるの横顔、ますっぐに斜め上前方を見つめるまなざし。今までリビングという生活空間にいたひかるが、少しひんやりとした人の熱気のない、しかし大切な人の気配のあるうす暗がりの空間に目を向ける瞬間が、文字と絵で見事に表現されている。

                         大切な人を失った経験のある人は、皆、肌感覚で感じるリアリティなのではないだろうか?

                         サッカー留学でブラジルに行った上級生・楠木修人と同級生の風間純
                         この二人の男性への、ひかるの思いも、この年頃の少女特有の距離感で描かれていて心地よい。

                         スカイエマの表紙を見たら「ジャケ買い」せずにはいられない。・・・というミーハーな(私のような)マーケットを狙ってか、最近、見かけることが多くなった。出版社一押しって事なのだろうと、少し意地悪い気持ちになりつつも、ついつい買ってしまう。
                         しかし、ジャケ買いの期待に応える宿命を持って店頭に並ぶというのは大変なことである。
                         内容は悪くはないのに、絵に敗北し、未熟さや野暮ったさが際立つ結果に終わっているものもある。しかし、スカイエマの絵でなければ、話題性も購入率も30%減なのだとしたら、それはそれで良かったのかな?と複雑な気持ちになる。

                         スカイエマの絵に負けないことは凄いことである。
                         
                         『ひかる!』
                         エネルギーにあふれた、行動とまなざし。
                         ひかるは、今、バトンをつなぐ事で、海堂先生が遠い昔の落としたバトンもつなごうとする。
                         誰もが胸に抱えているであろう遠い昔の心の傷は、思いもよらぬところで癒されるチャンスを持つのかもしれない。真剣にさえ生きていれば!

                         生徒にも先生にも、過去があって、今があって。
                         生きていくことの連続性に、絶対の信頼を感じる。
                         何かと真剣勝負したくてたまらなくなる。今も自分は、子どもの頃に恥じない真剣な生き方をしているのだと証明したくて語りたくて仕方なくなる本だ。
                         
                         
                        category: | by:天晴くん☆comments(0)trackbacks(0)

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