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    ひかる! 本気<マジ>。走る!

    2009.06.02 Tuesday 23:25
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                  後藤竜二&スカイエマ そうえん社 200905       

       集英社文庫・太宰治『人間失格』のカバーを『DEATH NOTE(デスノート)』の小畑健のイラストに変えたところ、夏の3カ月で10万部を突破するヒットになったのは記憶に新しいところだ。
       この営業活動には賛否両論あるだろうが、俗人の私からすれば、表紙に魅かれて、普段自分が読まない本を読む事は勿論、ファッション的にカッコイイからその本を持ち歩くというのも大歓迎だ。
       本は読むものではあるが、読むだけのものではない。
       例えば、読めもしないヘルマン・ヘッセのドイツ語の原書を持ち歩くことも、お洒落は足元こそと、頑張って靴擦れを我慢しながらフェラガモの靴を履くことも、自分の美意識に自分を合わせようとする尊い行動であると私は思う。

       最近は、児童書も「ジャケ買い」のするのだそうだ。
       なかでも、スカイエマのシャープで、アクティブで、洗練された、まさしく現代的な知性を感じる絵は、児童書というものに対する一般の人々のイメージを変えるくらいのインパクトがあったのではないだろうか。
       タイトルの『ひかる!』シリーズは弟3弾。後藤竜二の、短くて含みのある文章が、ビジュアルのインパクトを超える真剣勝負凄まじい作品である。
       ひかるの、まっすぐで硬質な学校生活を、文章と絵が、全身で表現している。

       四年生のひかるが、代表委員の全校代表になる。そのことを、父の位牌に報告するまでのシーンが良い。

       「報告してあげて、すごく、よろこぶ。」
       おみそ汁におとうふを入れながら、やわらかな声でいった。
       「ふぁーい」と、おどけて、わたしはとなりのマーちゃんのへやにはいった。
       すぐに居間にもどるつもりだったから、ドア開けっぱなしで電気もつけなかった。

       よこにスカイエマの絵がある、ひかるの横顔、ますっぐに斜め上前方を見つめるまなざし。今までリビングという生活空間にいたひかるが、少しひんやりとした人の熱気のない、しかし大切な人の気配のあるうす暗がりの空間に目を向ける瞬間が、文字と絵で見事に表現されている。

       大切な人を失った経験のある人は、皆、肌感覚で感じるリアリティなのではないだろうか?

       サッカー留学でブラジルに行った上級生・楠木修人と同級生の風間純
       この二人の男性への、ひかるの思いも、この年頃の少女特有の距離感で描かれていて心地よい。

       スカイエマの表紙を見たら「ジャケ買い」せずにはいられない。・・・というミーハーな(私のような)マーケットを狙ってか、最近、見かけることが多くなった。出版社一押しって事なのだろうと、少し意地悪い気持ちになりつつも、ついつい買ってしまう。
       しかし、ジャケ買いの期待に応える宿命を持って店頭に並ぶというのは大変なことである。
       内容は悪くはないのに、絵に敗北し、未熟さや野暮ったさが際立つ結果に終わっているものもある。しかし、スカイエマの絵でなければ、話題性も購入率も30%減なのだとしたら、それはそれで良かったのかな?と複雑な気持ちになる。

       スカイエマの絵に負けないことは凄いことである。
       
       『ひかる!』
       エネルギーにあふれた、行動とまなざし。
       ひかるは、今、バトンをつなぐ事で、海堂先生が遠い昔の落としたバトンもつなごうとする。
       誰もが胸に抱えているであろう遠い昔の心の傷は、思いもよらぬところで癒されるチャンスを持つのかもしれない。真剣にさえ生きていれば!

       生徒にも先生にも、過去があって、今があって。
       生きていくことの連続性に、絶対の信頼を感じる。
       何かと真剣勝負したくてたまらなくなる。今も自分は、子どもの頃に恥じない真剣な生き方をしているのだと証明したくて語りたくて仕方なくなる本だ。
       
       
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      悲しみよ こんにちは

      2009.06.01 Monday 23:40
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          6月がやってきた。私はサガンと同じ日に生まれた。6月21日、誕生日が近づくとサガンを思う。そして、私はあの頃に連れ戻される。

         思春期の嫉妬とは無謀なものである。

         高校1年生だった私は、 時を越え、1954年を生きる18歳のサガンに嫉妬していた。全世界でベストセラーとなるデビューし、小さな悪魔と言われたサガン。表紙をめくると現れる、物憂げな子猫のようなサガンの容姿。
         『悲しみよ こんにちは』 朝吹登水子・訳 新潮文庫
         その洗練された題と、サガンと重なる主人公セシルの経験、そして精神の動きと残酷さ。成熟と青い情熱。奇妙な敗北感と嫉妬に身を焦がしながら、私はその本を読んだ。
         あと、2年たったとして、私はこんなにも、自由で美しく、わがままで鮮烈に生きているのだろうか?
         それは、セシルのようになのか、サガンのようになのか、強い嫉妬に苦しみながら、かなわないことを感じながら、私は、サガンの本に次々に手をだした。

         再読したら、つまらないかもしれない。
         高校時代の大切な思いまで壊してしまいそうで、私はこわごわ、文庫本を手にした。

         はじめ、今の読みやすい翻訳を読みなれた私には、朝吹登水子の訳は少し硬いと思った。不自然にすら感じた。
         しかし、その言い回し、硬質な、いかにも翻訳だという文章、そして古い本の独特の匂い。
        大切な本は、大切な思い出と直結し、私の心を、今もなお捉えて放さなかった。 

         シリルが顔を少し前に持ってきて、私たちの唇が触れ合ったとき、私たちはお互いにもうしりあった仲だということを感じた。私は目をあけたまま坐っていた。彼の、熱い、硬い、じっと動かない口が私の口の上にあった。あすかな震えが唇を伝わった。彼はそれを止めようとして、もう少し唇を押しつけた。それから彼の唇が開いて、その接吻は能動的になり、すぐ命令的になり、巧妙に、あまりにも巧妙になって行った・・・・・・。

         ファーストキスの表現でこれに勝るものがあるだろうか?

         直接的で自然な文章で、微に入り細に入り描かれることが表現であると、安っぽい描写として満足していた、最近の、読者としての自分の感性の低下に愕然とした。

         あのころの、体中の血が沸きあがるような嫉妬は感じない。
         こんなものは面白くないと、友人に、言い訳をしたくなるような衝動もない。
         もう少女ではない自分を 少し寂しくは感じたが、久々に読んだサガンは、やっぱり私の気持ちを捉えてくれた。永遠なのかもしれない。私の中の内なる少女は、やはりサガンを楽しんでいた。

         なんだかもっとサガンが読みたくなって、検索してみたが、ほとんどの著作が品切れ・絶版になっている。唯一、簡単に購入できそうな本が、同じ新潮文庫で、2009年1月河野万里子の新訳で出版された『悲しみよ こんにちは』だ。
         ぜひ、読んでみようと思う。
         朝吹訳を越えていても、私の思い出は越えられないだろう。
         だからなおさら読むのが楽しみでもある。


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        前夜祭

        2009.05.31 Sunday 22:43
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           誕生月というものは、何かを始めたくなるものだ。
          誕生月を目前に、ブログを始めてみることにした。書きたいと思うような、素晴らしいものにいっぱい出会える毎日を過ごしたいと思っている。

           さて、今日は、新国立劇場で、「タトゥー」(シリーズ・同時代【海外編】)を見た。上京の予定にあわせ、何かをと思い、役者の吹越満さんの名前で見ることを決めた、衝動買いに近い観劇である。

           黒い舞台に無数の白い窓枠が吊り下がっている。その中に、ベッド、椅子、テーブルといった生活用品が垣間見える。白い、不安定な衣装に身を包む役者たち、棒読みに近い台詞回し・・・そして、奇妙なブレスで台詞が中断する。
           舞台から消えない登場人物(舞台のソデで体育座りのまま自分の出番を待っている)、暗くならない客席。休ませてくれない、感情移入も許さない、不思議な舞台空間であった。
           近親相姦の物語である。
           気さくで働き者で家族思いのパン職人の父、家事と仕事を両立しながら控えめに家を支える母、仲良く喧嘩するしっかりものの姉とやんちゃな妹。しかし、この平和は、何か、奇妙な不穏を孕んでおり、時々、言葉の端々に異常なエロスが滲む。
           父親の蛮行を、母は知りながら、平和な家庭にしがみつく。妹は、姉がされている事に嫌悪を感じながらも、なぜ姉だけが求められるのかとコンプレックスを抱く。
           父が執拗にこねるパンは、肉体の象徴か?姉娘がかまえる銃の先の林檎は贖罪の象徴か?
           文化の違う国で生まれた舞台のシグナルをつかみきれない自分がもどかしい。
            舞台美術を担当したのは塩田千春。
          数年前、国立国際美術館(大阪)で赤い糸にまっすぐ引かれている(まるで、底引き網の一本一本が釣り上げたように)無数の靴という作品を見たことがある。気配を感じさせることによって不在を明らかにする・・・妙に印象深い作品だった。
           白い無数の窓。閉じ込められた家族。父親の一言ではじまる夕食も、椅子も、テーブルも、下がってはくるが、不安定に浮き上がったままだ。
           今回も、気配と不在のバランスは、とても象徴的に舞台に表現されていたと思う。
           原作者は、ベルトルト・ブレヒト賞を受賞した現在ドイツ演劇界を代表する新鋭女流劇作家デーア・ローアー。役者に、感情移入をした演技だけはしないでほしいと要求したとの事だ。
           演出家の岡田利規は、「より遠くにいける可能性のある作品」を生み出す方法論を「引き寄せないようにそれをいつまでも掴んでいないように、すぐに手放すように」心がけているのだという。
           なんとも幸せな出会いではないだろうか。

           作者と、演出家、役者、それぞれが、自分にひきつけることが罪悪であるかのように、態度や言葉が無機質なボールとなり、気配と不在の中を行き来する。

           記号化された人間たちが繰る広げる、暗号に満ちた物語。とても刺激的な時間であった。



                                 

          category:舞台 | by:天晴くん☆comments(0)trackbacks(0)

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